ふろなし生活

郊外のニュータウンから、下町の長屋に引っ越してきました。

歌える街

週末に銭湯を使った音楽イベントを覗いた。
風呂場で歌いたくなるのは人間の本能にも思えるくらい、銭湯と音楽は非常に相性がいいであろうことは誰もが共感するはずだ。
ところが、周知の通り実際の銭湯では歌えない。おしゃべりや挨拶はあたりまえでも、歌ってしまうのは、チョット、アイツおかしいんじゃネェの、という視線を向けられるにちがいない。
湯船に浸かりながら毎度同じような曲を思い通りに歌えるかどうかはその時々の心身の調子をはかる目安にもなるのだが、銭湯ではどうにもむずかしい。
 
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そもそも、江戸時代まで遡ってみると、誰もが銭湯で歌っていたという。
江戸の風呂屋ではお湯を溜めずに、ちょうどミストサウナの要領で湯気を浴びるのが主流で、お湯の熱を逃がさないように「石榴口(ざくろぐち)」と呼ばれる腰をかがめてくぐるような狭い入口が設けられていた。そのため、浴室はいまとは反対にうす暗く、周りの客の様子もよくわからないので、各々好き勝手に歌っていたようだ。明治以降に衛生上の問題から石榴口が廃止される(「改良風呂」の登場)と、銭湯がパッと明るくなってお互いの顔が見えるようになり、途端に恥ずかしい気持ちが湧いてきたんだとか。明るい都市は禁断の果実である。

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そんな経緯が平成に至るまで続いているせいかは知らないが、風呂屋では歌えないので仕方なく帰り道に自転車を漕ぎながら歌っている。なぜだか外では歌うことが許されている気がする。
この下町の風呂なし長屋の前では、始終誰かが歌の練習をしては、近所のババアがヨッ、うまいネェなんてはやし立てている。
対称的に、実家のあるニュータウンを思い出すと、家風呂ではいくらでも歌えるけれど、外で歌っている人を見たことはない。
 
歌える街と歌えない街。
 
銭湯が活きている街は、外で歌う人が風景になる。
日常に銭湯がある社会は人に寛容なのだ。