ふろなし生活

郊外のニュータウンから、下町の長屋に引っ越してきました。

ニューヨークで入浴


という駄洒落を初めて聞いた小学生時分の喜びといったらもうたまらなくて、世の中にこんなにおもしろい言葉があったのかと友人に教えまわっていたのを覚えている。
それがクスリとも笑えなくなってしまった昨今、このまじないに別のこじつけを見出せる気がしたのは、ホンモノのニューヨークを訪れたときのことだ。

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真冬のボストンから、初夏のマイアミを目指して南下する東海岸の旅行だった(“旅”というのがこっ恥ずかしくていつも旅行と言ってしまう)。
アメリカ合衆国というのはどんな国なのか、アメリカ人というのはどんな連中なのか、ある意味いちばん身近でありながら、これまで得体の知れない恐ろしさを感じていたが、行ってみるとびっくりするほど肌に馴染んだ。

とりわけ、ニューヨークが素晴らしかった。美術館を巡ったりミュージカルを観たり、月並みな楽しみ方の合間に乗る、メトロの不思議な居心地の良さが忘れられない。
「人種のサラダボウル」という、いまひとつピンとこない言葉で例えられるこの国の人々の多様性は、一体どのように共存しているのか。隣人が何者かわからないのは都市の必然と言えるが、その隣人と傷つけ合わずに生きていくための振る舞いや、それが表れる空間がどこかにあるはずだ。
宗教施設や広場、そうした性格を持った場所は旅行者であればこそ感じ取りやすかったりする。外国に行けば物珍しく見られたり、当たり前のように差別されたりするけれど、ただの黄色人種の東アジア人で、それ以上でも以下でもない自分が水や空気のように佇んでいられるところ。それが僕にとってニューヨークではメトロの車内だった。

タイムズスクエアでのはしゃぎっぷりがウソのように地下は静かで、こっちの顔がリアルなニューヨーカーなんじゃないかと思わせる。車内には、個々人のバックグラウンドの違いがそれほど表出しない日本とは異なる緊張感があり、肌や目の色も様々な乗客たちはうつむいて、あるいは暗い眼差しを宙に漂わせている。かといって、東京の電車のように周りに全くの無関心でスマホにかじりついているわけでもない。彼らは僕をチラリと見て、僕も彼らをチラリと見返して、ただそれだけ。ただそれだけだけど、お互いの差異や干渉しない距離感を了解し合った、そんな気がした。

誰も自分のことを知らないし、誰であろうと構いっこない。孤独だけれど、周りも同じように孤独だ。人とのつながりよりも、孤独を承認されることが、心を整えるのにちょうどいいときがある。旅行には、いつもその孤独を求めて出かけるのだ。日常から切り離された自由は孤独の中にこそ見つけられる。

東京でこの感覚と身近に出会える場所のひとつが、銭湯だ。

「古き良き」「あたたかい」銭湯コミュニティというものも確かにあるけれど、基本的にはひとりだし、周りもひとり、お互いのことはよくわからない。相手の裸体や仕草からなんとなく生活の背景や人となり(もしくは動物としての強さ)を察して、間合いを測ったり、進路を譲ってみたり、リズムを合わせたりする。それは、あのニューヨークのメトロで交わした繊細な視線のやり取りと同様の都市民の作法なのだ。日常動作として自然にやらなければならないから、コミュニケーションとしてかなり高度だし、都市に集まって住まうことの本質がそこにあると言ってもいい。

毎日の銭湯でのひとときは、不自然な「つながり」を持ちすぎた現代の都市生活の中にぽっかりと孤独をもたらしてくれる。他者と空間を共有する孤独はあたたかくポジティブで、部屋にこもってひとりで過ごす時間以上に豊かなものに感じる。
毎日の入浴にニューヨークでの孤独が重なる。旅情に求める孤独は、案外、近所の銭湯に見出せるかもしれない。