ふろなし生活

郊外のニュータウンから、下町の長屋に引っ越してきました。

枯木の入浴

銭湯へ行くと、たいてい老人が身体を洗う様子を観察している。

 

1年で350回、20年通った常連は2万回も同じ動作を毎日繰り返してきたわけだから、そこには「所作」とも呼ぶべき洗練が備わってくる。頭のてっぺんからからつま先までいっぺんに泡だらけにしないと気が済まない者や、節水に異様な執念を燃やす者など、今日まで各々が積み重ねてきた日常の結果として実に個性化されている。

 

せわしい心の人間にゆったりとした所作は身に付かないように、身体を洗うほんの一場面にも人格や生活の背景が見え隠れする。つつましくかつ豊かに年を重ねた老翁が自らの身体と向き合う所作には思わずハッとする奥ゆかしさがあり、いやしく意地悪に老いただけの肉体や仕草にはその品性も表れる。

 

とりわけ、ボイラー室から現れるこの風呂屋の店主の入浴姿に、鏡越しについつい見入ってしまう。

空気がずしりと重さを持っているような、背骨や間接が少しずつ連動する音が聞こえてくるようなスローモーション。やせ細って余計なものが削ぎ落された身体は長年危うく立ち続けている枯木のようなオーラを纏っていて、一連の所作は植物が人間には感じることのできない速度で、着実に、しかも合理的に動いているのと同じように無駄がない。ちょうどひまわりが太陽の動きを追いかけて花の向きを変える様子や、芽が土をおしのけて顔を出す瞬間の思いがけない力強さを連想する。

 

インドネシア・ムンタワイの集落では、人間を樹に見立てて、歳を取るごとに胴体には幹、腕には枝葉をモチーフにした入れ墨を刻む風習がある。年輪を重ねるように身体は少しずつ樹に近づいていき、死んだ者は森の立派な樹の根元に埋められるという。最期には人は樹とひとつになるのだ。

風呂屋の枯木の入浴姿から、自分もやがては老いて自然の一部へ還っていくのだというあたりまえのことを意識する。私は樹になれるような生きかたをしているだろうか。