ふろなし生活

郊外のニュータウンから、下町の長屋に引っ越してきました。

洗い場のドア係

小学校の一時期、クラスに「ドア係」なる役職があった。
 
「飼育係」や「黒板消し係」と同じ類の学級当番で、冬場に教室が寒くならないよう、誰かが開けっ放しにしたドアを見つけ次第閉める仕事である。誰の発案だったか記憶にないが、クラスでものろまな雰囲気のあるYくんが務めることになり、案の定わざとドアを開けっ放しにして「おいドア係〜!!」とやるバカが出はじめたのですぐ廃止になった。
 
***
 
風呂屋にも「ドア係」がいる。これは決まった誰かというわけではなく、洗い場のドア付近のカランに陣取ってしまうと「ドア係」をやるはめになるのだ。この季節は脱衣所へのドアが少し開いているだけでも木枯らしのような冷気があたたまった身体に吹きつけてくる。
 
ドアを開けっ放しにしてしまう人というのはおおむね2種類いて、ここでは仮に〈ビギナー型〉と〈おおざっぱ型〉としよう。
 
(1)ビギナー型
〈ビギナー型〉は単純に銭湯に不慣れなのか、閉める素振りすら見せない人たちである。これは若者かまちあるきのついでに寄ってみましたという感じの中年に多く、脱衣所にいるときから「あ、この人はきっとドアを閉め忘れるな」という雰囲気を漂わせている。
 
(2)おおざっぱ型
ドアを閉めることは閉めるけれどいい加減にやるから閉まりきっていなかったりドアが跳ねてもう1度開いてしまうパターンである。ボケ気味の老人やいかにも細かいことに無頓着な常連のジイさんによく見られる。この人たちのクセは直らないので周りがフォローしてあげなければならない。
 
向き直って、開けっ放しのドアを閉める人はどうか。これは〈いましめ型〉〈やれやれ型〉〈こっそり型〉の3種類に大別できるように思う。
 
①いましめ型
ドアが開いていると烈火の如く怒り、設備をぶっ壊す勢いでピシャリと閉めるタイプである。(ガラガラガラ〜……ビシィッ!!)と大きな音がして振り返ってみたら知らないジイさんがこっちを睨んでいて青ざめるというトラウマを〈ビギナー型〉に植えつける。この強烈な体験によって同じ失敗を繰り返さないようになるが、2度と銭湯には行きたくないと思わせてしまうかもしれないため、店側にとってはあまりありがたくない。とはいえ、洗い場の客は気持ちが少しスカッとするのも否めない。
 
②やれやれ型
成熟したいい大人が〈いましめ型〉のように感情を表に出してはみっともないと、「やれやれ、またか……」と言いたげな雰囲気で重たい腰を上げる人たちである。これがまたイヤミな感じで、開けっ放しにした相手をじいっと見ながら(ガラ……ガラ……)時間をかけて閉めるので、良心を持った相手であればじわりと反省の念が押し寄せてくる。性格にやや歪みを感じ、筆者もこのタイプにあたる。
 
③こっそり型
〈おおざっぱ型〉の懲りない人や、ドアを閉めるのも一苦労の高齢者が相手のときに、誰にもわからないようなナチュラルな動作でスッと閉めてあげる紳士的な対応である。いかにも開けっ放しのドアを閉めるためにわざわざ立ち上がったかに見えないよう、浴槽やシャワーブースに向かう途中にあたかもその場で気付いたような、「ついで」の動作を装うのも奥ゆかしく、これこそ作法と呼ぶにふさわしいタイプである。
 
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ところが、つい最近リニューアルした銭湯に足を運んでみると、なんとドアが半自動で閉まるではないか。もう開け放題である。洗い場のレイアウトも、ドアを開けたらカランが吹きさらしなんてことのないように工夫されているので、「ドア係」はいらなくなったのだ。さてさて、これから〈いましめ型〉や〈おおざっぱ型〉の人たちとはどこで出会えるようになるんだろう。
 
今夜もまたサウナ客がドアを全開にして出ていった。思ったよりも寒くなくて、湯気のこもった洗い場を心地よい風がふうっと上っていく。つらい冬ももうすぐおしまい。
 
 

 

ニューヨークで入浴


という駄洒落を初めて聞いた小学生時分の喜びといったらもうたまらなくて、世の中にこんなにおもしろい言葉があったのかと友人に教えまわっていたのを覚えている。
それがクスリとも笑えなくなってしまった昨今、このまじないに別のこじつけを見出せる気がしたのは、ホンモノのニューヨークを訪れたときのことだ。

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真冬のボストンから、初夏のマイアミを目指して南下する東海岸の旅行だった(“旅”というのがこっ恥ずかしくていつも旅行と言ってしまう)。
アメリカ合衆国というのはどんな国なのか、アメリカ人というのはどんな連中なのか、ある意味いちばん身近でありながら、これまで得体の知れない恐ろしさを感じていたが、行ってみるとびっくりするほど肌に馴染んだ。

とりわけ、ニューヨークが素晴らしかった。美術館を巡ったりミュージカルを観たり、月並みな楽しみ方の合間に乗る、メトロの不思議な居心地の良さが忘れられない。
「人種のサラダボウル」という、いまひとつピンとこない言葉で例えられるこの国の人々の多様性は、一体どのように共存しているのか。隣人が何者かわからないのは都市の必然と言えるが、その隣人と傷つけ合わずに生きていくための振る舞いや、それが表れる空間がどこかにあるはずだ。
宗教施設や広場、そうした性格を持った場所は旅行者であればこそ感じ取りやすかったりする。外国に行けば物珍しく見られたり、当たり前のように差別されたりするけれど、ただの黄色人種の東アジア人で、それ以上でも以下でもない自分が水や空気のように佇んでいられるところ。それが僕にとってニューヨークではメトロの車内だった。

タイムズスクエアでのはしゃぎっぷりがウソのように地下は静かで、こっちの顔がリアルなニューヨーカーなんじゃないかと思わせる。車内には、個々人のバックグラウンドの違いがそれほど表出しない日本とは異なる緊張感があり、肌や目の色も様々な乗客たちはうつむいて、あるいは暗い眼差しを宙に漂わせている。かといって、東京の電車のように周りに全くの無関心でスマホにかじりついているわけでもない。彼らは僕をチラリと見て、僕も彼らをチラリと見返して、ただそれだけ。ただそれだけだけど、お互いの差異や干渉しない距離感を了解し合った、そんな気がした。

誰も自分のことを知らないし、誰であろうと構いっこない。孤独だけれど、周りも同じように孤独だ。人とのつながりよりも、孤独を承認されることが、心を整えるのにちょうどいいときがある。旅行には、いつもその孤独を求めて出かけるのだ。日常から切り離された自由は孤独の中にこそ見つけられる。

東京でこの感覚と身近に出会える場所のひとつが、銭湯だ。

「古き良き」「あたたかい」銭湯コミュニティというものも確かにあるけれど、基本的にはひとりだし、周りもひとり、お互いのことはよくわからない。相手の裸体や仕草からなんとなく生活の背景や人となり(もしくは動物としての強さ)を察して、間合いを測ったり、進路を譲ってみたり、リズムを合わせたりする。それは、あのニューヨークのメトロで交わした繊細な視線のやり取りと同様の都市民の作法なのだ。日常動作として自然にやらなければならないから、コミュニケーションとしてかなり高度だし、都市に集まって住まうことの本質がそこにあると言ってもいい。

毎日の銭湯でのひとときは、不自然な「つながり」を持ちすぎた現代の都市生活の中にぽっかりと孤独をもたらしてくれる。他者と空間を共有する孤独はあたたかくポジティブで、部屋にこもってひとりで過ごす時間以上に豊かなものに感じる。
毎日の入浴にニューヨークでの孤独が重なる。旅情に求める孤独は、案外、近所の銭湯に見出せるかもしれない。


銭湯で高校生を叱る

毎晩通っている銭湯で高校生を叱ったのを、1週間くらい心に引きずっている。 

 

2人で入りにきた彼らは見たことのない顔だった。 

ぶったまげたことに、洗い場にスマホを持ち込んでいる。ジップロックに密閉して、身体を洗いながら器用にチェックしているのだ。 

これはいけない。ついに聖域が侵された。今や銭湯は都市でスマホの束縛から逃れられる唯一の場所だったのに、ニュージェネレーションはその境界をやすやすと越えてくる。浴室のやわらかな光の中でスマホの画面はひときわギラつき、それがサル同然の現代人にはとんでもない刺激物であることを語っていた。 

 

浴槽へ連れ立った2人は例によってアツいアツいと騒いだ後、縁に座ってまたもやスマホにかじりつく。よく見ると2機のスマホが背中合わせで収納されており、それを全裸の男子がETさながらに両側から人差し指をくっつけ合うように無言でいじっている異様な光景である。

この便利な端末は人間の身体感覚を狂わせる、あるいは乗っ取るおそろしいもので、街を行く人の半分は、うつむいて画面を見つめ、イヤホンで聴覚もとい周辺との距離感やバランスを捨て去り、完全にバカになっているように思う。私たちが生きている街はそんなにも目をそらし耳を塞ぎたくなるような世界だろうか。そうなのかもしれない。 

 

何やら動画を見終わって、再びアツいアツいと湯に水をジャブジャブ注いだ後、半身をサッと浸して上がってきた。座ったのは私のとなり。戻ってきてもアツいアツいと繰り返す2人は、カランの水を全開にして、今度は冷たい冷たいとはしゃいでいる。 心がざわつく。

その水を、どちらともなくピシャッと相手にかけはじめた。嫌な予感。こうなったら止まらないもので、今度は洗面器に水を溜めて勢いよくぶっかけた。 

 

バシャッ!! 

「うわァ、冷てェッ!!」 

1度目。水しぶきが飛びちった。ちょっとかかった。鏡に映る周りの客の表情にもマンガの怒りマークが見える。 

 

バシャッ!! 

「冷てェッ!!ははは!!」 

2度目。温まった足に冷水がしたたる。今度は鏡越しに、背後の客と目が合った。 お前もかかったか?俺もかかったぞ、という一瞬の意思疎通。 

額のシワが隠せなくなってきた。となりの洗面器には3度目の水が注がれている。 

 

「水が周りの人にかかる」というトラブルはこの風呂屋でも最も頻繁に遭遇する類いのものだ。 

あかの他人に対して感情を表現するのに不慣れな私たちの世代はこういう不愉快な出来事を処理するのが得意でない気がするので、先日見かけた同じような案件に対する年長者どうしの、 

「ちょっとォ!ひっかかってるヨォ!」 

「おう!すまねェな!」 

という余りにも後腐れなくさっぱりとしたコミュニケーションにはいたく感激した。 

こういう芸当は若者にはできない。どうするんだろう。こっちもスマホを持ち込んで「銭湯 マナー 水 かかる」と検索した画面を嫌みっぽく相手との間に置いておこうか。 

 

ろくでもない新参者がいるとき、いつも叱ってくれる常連のジイさんというのもやっぱりいて、態度が横柄だったりしてあんまり好きじゃないけれど、自分では見て見ぬフリをしてどこか彼に期待してしまう。 

 

この日は、その人がいなかった。 

 

洗面器はもう満杯。誰かが声を上げなくてはいけない。 

自分がどんなに未熟でも、人を叱らなければならないときが必ずくる。嫌な立場だろうと何だろうと、年を重ねればそれ相応の社会的な役回りを演じざるを得ないのだ。背後の客も、2人をはさんで向こうの客も、みんな30〜40代くらいでどうにも頼れない。順番が今日、自分に回ってきたのだ。あの嫌なジイさんはどうやってたっけ。 

 

バシャッ!!!! 

「つ め た い よ ! ! ! !」 

 

思ったより声が出た……。目を丸くしてのけぞる相手。

  

「……周りにも人がいるから気をつけてね」 

 

ダメだ。寒気がするほど年長者ぶってしまった。あえて声を荒げたけど冷静さは保っている自分、怒ることと叱ることの違いをわきまえてます、みたいな。ああやだ。あの年寄りの爽やかさには到底及ばない。 

 

「アツかったな……」 

「うん、オレ……もう出ようかな……」 

 傷をなめ合うようなやり取りを残して、そそくさと持ち物をまとめて出ていった。ドアが開けっぱなし。立ち上がって閉める。冷えたせいか体が重い。 

 

湯に入り直して、2人が脱衣所から出ていくのを待った。 

反省がぐるぐると頭をめぐってのぼせた。アツいアツいと騒ぎたい。 

怒るって、叱るってしんどい。ジイさん、オレにはまだ早かったよ。いつもありがとう。 

 

 

1日が終わる音

最寄りの風呂屋は深夜1時半まで営業している。そんなに遅くまでやっていて苦労ばかりじゃないかしらと思ったけれど、深夜はかき入れ時なのだ。おおよそ夜中の12時をまわったころに銭湯に来るような生活リズムの人間が多いのである。
 
午前1時7分。営業終了まで30分を切ったころ、ブクブクボコボコと音を立てていたジャグジーがぴたりと止まる。
途端に湯気とともにぼんやりとしていた空気が澄み切って、背筋が伸びるように静まりかえる。洗面器の跳ねる音、歯磨きのリズム、絞った手ぬぐいからこぼれるしずく、大きなため息とひとりごと、女湯のドアの開け閉め……それまで聞こえていなかった風呂屋の音が急に鮮明になり、シャンプーで目を閉じていた暗闇の世界が、ぐんと奥行きを帯びてくる。それぞれの1日が終わってゆく音が、重なるのでも呼応するのでもなく、月並みな表現だけれど不思議とひとつの音楽のように響き合っている。
 
泡立っていた浴槽のお湯もそれらしく水平を保つようになる。古今東西、水は流れているから清らかなのであって、淀んだ途端に見えなかった皮脂やら体毛やらが目につくようになる。ああ、この人たちと同じ風呂に入っているんだというのが急にリアルに思えてくる。
 
もう10分も経つと電気も消される。サイレント蛍の光。見ず知らずの男どうし、薄暗い空間に全裸で佇むのもなんとも居心地が悪いので、駆け込み客を尻目に引き上げる1時20分。湯もぬるくなってきた。
 
夜風にイッてしまいそう。睡眠時間を計算して憂鬱になりながら酒飲んで寝る。

私の入浴作法

以前の記事で、入浴にはある種の所作が備わると述べた。毎日同じ生活動作を繰り返すことが「日常の中の洗練」に達するのである。
春から風呂のない家に住みはじめて5ヶ月目だから、今日まで130回ほど銭湯に行ったことになる。私の入浴作法はとうてい美しくないけれど、お決まりの入り方を書き出してみたい。
おそらくそれほど人と違うこともないはずなのでおもしろくもなんともないが、これが迷うことなくすらすらと出てきて、なんとなく定まっていったものが思った以上にはっきりと定着していることがわかる。
 
***
 
毎夜11時ごろ入店(営業は1時半まで)。行き帰りの移動(片道3分)を含めて1時間ほど。
 
1.  下駄箱は26(フロ)番を使う。下駄箱の埋まり具合で中の混雑をはかる。
2.  カウンターの当番に回数券を渡す。女将さんかバイトのお姉さんだとうれしい。
3.  のれんをくぐって風呂場をのぞき、不快なほど混んでいたらテレビを見てやりすごす。
4.  脱衣所に入って、26(フロ)番のロッカーを使う。埋まっていたら第2、第3候補がある。
5.  服を脱ぎながら誰が入っているか(おかしい人がいないか)を見る。定位置が空いているかを確認して、空いていなければ座る場所の目星をつけておく。
6.  水分補給をしたか確認して、していなければ洗面所の水を飲む。
7.  イスと洗面器を取る。できるだけ乾いたものを選ぶ。
8.  上座、泡をまき散らしそうな人の背後、嫌な常連(11時半ごろ来店)の定位置付近を避けて席を取る。
9.  イスと洗面器を軽くすすぐ。
10. シャンプー+ボディソープ:終わったら3分程度休む。
11. 3つあるうち最も高温の浴槽に入る。いっぺんに首まで沈んで70〜90秒ほど浸かる。
12. リンス+洗顔:終わったら3分ほど休む。
13. 2番目に熱い浴槽に入る。ジェットバスを当てながら2分ほど浸かる。
13. 歯磨き:5分ほどかける。水下に人がいる場合は吐き出した歯磨き粉が素早く流れるように洗面器にためた水をサッと流す。
14. 3番目の浴槽(低温)に入る。この浴槽は浅く腰掛けられるため、腰まで浸かって3~5分ほど瞑想をする。
15. そのまま1番目の最も高温の浴槽に戻り、30秒ほど浸かる。
16. 手ぬぐいで身体を拭き、使ったイスと洗面器をすすいで元の位置に戻す。
17. バスタオルで身体を拭き、下着だけを履く。
18. ベンチに腰掛けて5分ほどかけて肩と首のストレッチ、足裏のマッサージをする。
19. 服を着て荷物をまとめて脱衣所を出て、テレビを観る。いつも日本テレビがついている。
20. カウンターで挨拶をして帰る。
 
***
 
書き出すまでもなく、風呂に浸かっている時間よりも、身体を洗ったり休みながら考えごとをする時間のほうがはるかに長く充実している。熱い湯に沈んでからの30秒ほどはたまらなく気持ち良いけれど、高温が苦手な私にとってはそこから先は惰性であり、やや苦しくもある。この風呂に浸かっている以外の時間(=空白/余白)の重要性についてはまたの機会にあらためて考えたい。
 
***
 
話が飛躍するが、銭湯で自分なりの入浴作法を持つことは、宗教的な礼拝の所作とよく似ているように思う。
すなわち、礼拝の作法を知っていれば世界中どこの教会やモスクでも国境を超えた共同体の一員として神と向き合う居場所が与えられるように、自分なりの入浴作法を持っていれば日本中どこの風呂屋に行っても程よい緊張感を保ちながらその土地の営みと自分自身に向き合うための居場所を見つけられるのである。
どちらもせわしない日常から距離を置いて、より大きな時間の流れに自らを接続することで人間らしいリズムを取り戻すための大切な行為である。
 
1日5回のイスラームの礼拝は立ったり座ったりを繰り返すが、これがなかなかいい運動になって、仕事の合間に頭がスッキリとするらしい。毎日決まった時間に決まった動作をすることは、心身をニュートラルに戻し、1日をきちんと終わらせるための儀式なのだ。
 
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きたない風呂屋

銭湯は不潔だ。
 
そう言うと反論を受けるだろうけど、それでもハッキリとさせておきたい。
いくら店主が掃除したって、客がきたないんだからしょうがない。
 
見ず知らずのオッサンが撒き散らす泡が洗い立ての背中にぴとりぴとりと飛んできて殺してやりたい気持ちになったり、
痰や鼻水の混じった水がゆったりと流れてくる床に運悪く歯ブラシを落としてしまって一生消えないケガレを背負ったように落ち込んだり、
意気揚々と休日の朝風呂に行ったら伸びきった髭にゲロの乾いたカスがこびりついた浮浪者と鉢合わせてどうしようもなくガックリきたり。
 
特に顔をしかめたくなるような例を挙げずとも、隠すべきものを隠さない人間が密集すれば腹が立つようなことだって毎度のようにある。
 
***
 
あえて銭湯を不潔だと言っているのは、違う視点から見れば私たちの暮らす日常が清潔になりすぎているからだ。街路、商店、食べ物、動物、コミュニケーション……すべてが漂白されている。本来持っていた心身の免疫だって落ちて当然だ。まっさらで質感を持たない都市に慣らされた私たちにとって、銭湯はいまだ漂白されていない数少ない場所である。
 
人間どうしが集まって暮らすにはそれなりの思いやりや器量が必要だが、私たちはいつからか生身の他者を受け入れることをあきらめて、目をそらす術ばかりに長けてきた。
わずかな時間でも日常を離れて大きい湯船でリラックスしたいけど、人と触れ合いたくはない。そんな現代人の欲求がスーパー銭湯を流行らせている。大方コミュニケーションのためにはデザインされていない施設なのだ。
 
銭湯は、スーパー銭湯とはそもそも受け入れる客層の幅が違う(=自分の属するコミュニティでは出会い得ない人と出会う)、あるいはスーパー銭湯では隠されているもの(=現代人が切り捨てたもの: きたなさ)が身体感覚を伴って露わになるところである。
マナーの悪い客やふんぞり返った年寄り、ホームレスやヤクザだって避けられない。
他者を受け入れて共存するという都市に生きることの本質を銭湯は教えてくれる。
 
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風呂屋で出会う卑しいと感じるものたちを見つめる鏡の中の自分の眉間に、醜いシワが寄っているのに気づく。ハッとして目を細めたり力を緩めたりしても、このシワがなかなか消えない。
きたなさに触れて、自らのきたなさに気づく。


熱い湯に入るコツ

風呂屋の湯は熱い。

私の通う銭湯の水温計は45℃を指しているし、下手すると47℃なんて殺人的な高温の風呂屋もある。
家庭風呂ではありえない熱い湯がもたらす健康への好影響は医学的にも証明されている。熱による刺激が「ヒートショックプロテイン」と呼ばれる傷んだ細胞を修復するタンパク質を生成し、体温・代謝が向上して、免疫力を高めるそうだ。銭湯の女将さんの肌がやたらときれいなのはこのせいである。そのあたりは神藤啓司さんの『銭湯養生訓』に詳しいのでご参考に。

とはいえ、熱い湯を求めて銭湯に集う人々の頭にそんな横文字はインプットされておらず、全ては彼らの決まり文句である「熱い湯じゃないと入った気がしない」という、感情論というか、根性論というか、刺激に対する一種の依存症のようなセリフに収束していく。

何も知らない若者が正常な感覚に従ってこの熱い湯に水を注ごうものならたちまち老兵に刺されてしまう。高温しか認めない暗黙の了解は、生まれてこの方半身浴しかしたことのない婦女子やぬるま湯で育った現代男子を駆逐する実に排他的な姿勢であり、銭湯が生き残りのために新規顧客を招き入れる上で大きな障壁となるであろう。
伸び悩むアイドルのライブ会場が古参ファンの独占欲やそこから生じる特殊な空気によって新規ファンに対するバリアーを形成し、古株の愛が大きければ大きいほど当のアイドルそのものの存在は閉ざされていく構造に似ている。

かく言う私も、銭湯生活わずか4ヶ月目にして「熱い湯じゃないと入った気がしない」マンになりつつある。
近くの安宿から入りに来たような若者があついあついと騒ぎ立てているのを横目に情けない、みっともないとバカにするくらいには症状が進行している。
こうやって年を取っていくのかと思うとおそろしいことである。

そもそも熱い湯は苦手だったはずだし、いまだって長い時間は入れないのだけど、毎日の入浴で発見した「熱い湯に入るコツ」がある。
躊躇しないことだ。
足先から少しずつ慣れていこうとか、シャワーで身体を十分にあたためてからにしようとか、そんなことをしたところで熱いものは熱い。
ところが、顔色変えずに進み入って、ふうっと息を吐きながら勢いよく首まで沈んでしまうと、不思議とちっとも熱くない。心がブレーキをかけるだけで、身体は思ったより平気なのだ。慣れるまで待っていては人生終わってしまうよ。

***

誰かと同じタイミングで同じ高温の湯に入ると、どうしても我慢比べのような状況に突入することがめずらしくない。いつもは1分も浸かっていると立ちくらみがするのでサッと上がってしまうが、となりに誰かがいるともう30秒、もう1分とついつい無理をしてしまう。手足がビリビリしてきても、涼し気な表情を崩さないように……

この静かで双方に無益な競争を打ち破る客がいる。
彼はいつもせわしない挙動でやってきて(おそらく知的障害がある)、3つ並ぶ湯船に端から順に指を浸けては「あつい!」また触れては「あつい!」と繰り返す。しばらく困った表情を浮かべたあと、湯船に浸かることをさっぱりあきらめて、熱い湯に耐えながらめまいを起こしている私たちを尻目にすたすたと風呂場から去っていく。こちらもそそくさと、ふらつきながら立ち上がる。

熱いものは熱いと素直に言っていいし、熱ければ入らなくてもいい。
これが熱い湯に入るいちばんのコツなのかもしれない。