ふろなし生活

郊外のニュータウンから、下町の長屋に引っ越してきました。

きたない風呂屋

銭湯は不潔だ。
 
そう言うと反論を受けるだろうけど、それでもハッキリとさせておきたい。
いくら店主が掃除したって、客がきたないんだからしょうがない。
 
見ず知らずのオッサンが撒き散らす泡が洗い立ての背中にぴとりぴとりと飛んできて殺してやりたい気持ちになったり、
痰や鼻水の混じった水がゆったりと流れてくる床に運悪く歯ブラシを落としてしまって一生消えないケガレを背負ったように落ち込んだり、
意気揚々と休日の朝風呂に行ったら伸びきった髭にゲロの乾いたカスがこびりついた浮浪者と鉢合わせてどうしようもなくガックリきたり。
 
特に顔をしかめたくなるような例を挙げずとも、隠すべきものを隠さない人間が密集すれば腹が立つようなことだって毎度のようにある。
 
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あえて銭湯を不潔だと言っているのは、違う視点から見れば私たちの暮らす日常が清潔になりすぎているからだ。街路、商店、食べ物、動物、コミュニケーション……すべてが漂白されている。本来持っていた心身の免疫だって落ちて当然だ。まっさらで質感を持たない都市に慣らされた私たちにとって、銭湯はいまだ漂白されていない数少ない場所である。
 
人間どうしが集まって暮らすにはそれなりの思いやりや器量が必要だが、私たちはいつからか生身の他者を受け入れることをあきらめて、目をそらす術ばかりに長けてきた。
わずかな時間でも日常を離れて大きい湯船でリラックスしたいけど、人と触れ合いたくはない。そんな現代人の欲求がスーパー銭湯を流行らせている。大方コミュニケーションのためにはデザインされていない施設なのだ。
 
銭湯は、スーパー銭湯とはそもそも受け入れる客層の幅が違う(=自分の属するコミュニティでは出会い得ない人と出会う)、あるいはスーパー銭湯では隠されているもの(=現代人が切り捨てたもの: きたなさ)が身体感覚を伴って露わになるところである。
マナーの悪い客やふんぞり返った年寄り、ホームレスやヤクザだって避けられない。
他者を受け入れて共存するという都市に生きることの本質を銭湯は教えてくれる。
 
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風呂屋で出会う卑しいと感じるものたちを見つめる鏡の中の自分の眉間に、醜いシワが寄っているのに気づく。ハッとして目を細めたり力を緩めたりしても、このシワがなかなか消えない。
きたなさに触れて、自らのきたなさに気づく。